コンピュータと物理学

現代的な計算機は20世紀の中ごろから発展が始まり,今日まで順調に指数関数的な発展をしてきた.この計算機ハードウェアの急速な進歩に刺激されて計算手法もまた急速な進歩を遂げており,ソフトウェア(=計算アルゴリズム)の進歩の計算能力の向上に対する寄与も無視できない.いずれにしても,ハード・ソフト両方の発展によって,我々は20世紀前半までには存在しなかった研究手段を手にいれている.

我々の研究室では実験家が大規模な実験装置を用いて実験研究を行うのと同様にコンピュータを「数値実験」の装置として使うことで,統計力学,固体物理学,量子物理学などのさまざまな物理学分野の多体問題を解明している.このような研究スタイルは最近では「計算物理」と呼ばれる.伝統的な物理学は,理論と実験という2つの手法によってすすめられてきたが,理論物理学者が行っていた主に紙と鉛筆のみを用いた計算の多くが,計算機を用いることで,より高い精度やより高い信頼度で実行することができるようになった.旧来,理論家は現実の現象からの原理抽出(モデル化)と抽出された原理にもどづくモデル計算の両方を行ってきたが,このうちモデル計算の部分では,計算機が大いに威力を発揮している.

たとえば,Alder と Weinright は,現代的な計算機の登場から間もない時期に,堅い球を多数箱に詰めただけの系でも,密度の変化によって相転移が起こることをシミュレーションによって明らかにした.これは,単純な特性をもつ要素が多数集まったときにだけ起こる一見不思議な現象を解明した例である.最近の例では,初期の宇宙形成シミュレーションなどがある.ここでも,基礎となる原理・方程式は従来から知られていたが,実際にその基礎方程式に基づいた多体問題の計算は紙と鉛筆だけによる計算ではとても無理であり,これを大規模計算によって行った結果,初めて初期宇宙の形成の様子が詳細にわかるようになった.

量子系のモンテカルロシミュレーション

計算によって様々な問題を解く努力がなされる一方で,計算できるとはどういうことか,どういう場合に計算可能でどういう場合に不可能なのか,という計算そのものに関わる基本的な問題にも関心がもたれてきている.アルゴリズム論のP/NP問題と呼ばれる問題が現代数学のもっとも基本的な未解決難問のひとつに数えられているのはよく知られているが,この問題は計算物理においても非常に深い関連を持っている.例えばフラストレート系の典型であるスピングラスモデルの低温相の計算がどのような方法を用いても困難なのは,スピングラスの基底状態問題がNP困難であることに関連があるのではないかと推測されている.最近では,さらに一歩すすんで,アルゴリズム論的な困難さと物理的相転移の性質を関連づけようとする試みまでされている.また,量子スピン系など,力学の諸問題の計算では,負符号問題といわれる困難が知られており,このために,量子力学的な効果を厳密に取り入れた計算は一般には自由度数に対して指数関数的に計算時間が増大する.したがって,この問題の解決なくしては,100倍,1000倍速い計算機があったとしても,それほど事情が改善しないのである.一方,物理学の進展がコンピュータに画期的な進歩をもたらしうる可能性もある.レーザー冷却によってできた極低温原子系を量子コンピュータに利用するアイデアなどである.レーザー冷却によって,希薄ボーズガスがボーズ凝縮を起こすことが1990年代になって実験的に確認された.

このように,計算物理学は物理学のさまざまな分野に登場する複雑な「応用問題」を解くための道具であると同時に,それ自身,活発な研究の対象になっている.また,非常に基本的な問題ともつながっていて,今後の発展が楽しみな分野である.私たちは,一方ではさまざまな興味ある応用問題を解き,他方では方法論の問題を考えながら,物性物理学と計算アルゴリズムの発展の両方に寄与したいと考えている.